渡辺千賀さんの『ヒューマン2.0』をやっと読んだ。最初から最後まで、とても楽しかった。シリコンバレーに興味のある人はもちろん、組織に依存しすぎない自分っぽい働き方やキャリア構築を考えたい人は必読、と思う。
 
 『ヒューマン2.0』的なワークスタイルがまかりとおるSFやシリコンバレーで取材していると、日本の雑誌に記事を書く時に困ることがある。なぜなら、何かと「現地の写真」を求められるからだ。
 例えば非営利の製薬会社「Institute for One World Health」の記事(参考までにweb転載されたもの)を書いた時。当時、CEOのヴィクトリア・ヘイル博士は国内外の出張が多く、SFのオフィスで会える望みは薄かった。そう伝えると、「それなら代わりの人をインタビューして、オフィスの写真を撮ってきて」と言われる。だけど実際には、上級役員はおそらくSF以外の場所に住んで他の仕事を掛け持ちしており、オフィスに常駐するのは事務スタッフやインターンだけだったりする。またPR担当はアウトソーシングしていて、当初はNYのフリーランスらしきエージェントだった。
 結局、一番詳しい情報を得られるのはウェブサイトであり、確かにウェブサイトは充実している。さらにCEOにメールインタビューできれば、十分に記事は書ける。でも、リクエストがくるのだ。「本人がオフィスにいる写真が欲しい」「臨場感が欲しい」…。
 現実的には、こういう人たちの臨場感は、空港やホテルやどこか外国でコンピュータに向かっている場面にあるのかもしれない。ヘイル博士の場合は開発途上国に薬を届けるのがミッションなので、インドで取材してきた米国のカメラマンから写真を購入して解決した。トップ以外のスタッフにしても、プロジェクトに応じてあちこちからセッションミュージシャンのように集まり、スカイプを使ったコンファレンスコールでのミーティングと出張で仕事を進め、終わったら解散するのだから、「本部で仕事をしている姿」は、そもそも存在が疑わしい。
 すでに20年近く同じ会社に勤めている友人には、ヒューマン2.0的な働き方はピンとこないらしく、「フリーランスの人って、一体いつ、どこから仕事が来るの? 仕事がなくなったらどうするの?」「違う組織に同時にせきを置いて、大丈夫なの?」「家でどうして仕事ができるの?」と、不思議そうだ。
 
 アメリカの知人たちも言っていたが、日本の雑誌はビジュアル志向で、デザインに手がかかっているものが多い。米国では写真もイラストも別枠コラムもほとんどないまま、テキストだけがエンエンと続く読み物がけっこうある。写真のかわりに、気のきいたイラストがちょこっと入っていることもある。英語のフォントが整然と並ぶ様はそれだけで美しいけれど、紙や印刷の質によっては新聞を読んでるのと大差ない気もしないではない。写真のないインタビュー記事を読んでいると、「どんな人なのかな」とやはり顔が見てみたくなる。
 日本の雑誌が「現地写真」にこだわる(ように私には思える)のは何故だろう? 何だか訪れた先々で、証明として写真を撮らなければ気のすまない観光客みたいだ。それは悪いことではないけれど、ネットとメールと電話会議で仕事がどんどん進められる時代には、どこか時代遅れな感覚のような気もする。場所とかモノとか人間とか、バーチャル空間に置き換えられているものが多いのに、それでも場所にこだわる必要があるのかなぁ? それともだからこそ、こだわるべきなのか? 
 (それを言ってしまったら、雑誌というメディアそのものの存在が危ういんだけど。)
 
 ところでそもそもインターネットやコンピュータに関することは、ビジュアル表現が難しいと言われてきた。パソコンと画面に映っているもの以外に、ビジュアル素材がなかなかないのがデザイナーの悩みの種だった。商品自体を見せようとすると、「パソコン画面を見ている人」というかわり映えしない見た目になってしまう。当初はネット関係の広告というと、何やらSF・未来的な表現が散見された。私はソニーやドコモのコピーライターをしていた時期が長い。ソフトウェアや新しいサービスでできることが一発でわかる表現を、ビジュアル/コピーを合わせて考え、マニュアルを日常の言葉にリフレーズするのが仕事だった。

 web2.0的なものは、実際に体験してわくわくしたことがなければ、肌感覚でとらえるのがおそらく難しい。そういう人にとって、web2.0の可能性というのはさらに抽象度が高くなる。そういう抽象的なものを、できるだけシンプルに表現したり製品化する能力が、あらゆる分野で求められていくのだろうと想像する。

ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) (朝日新書)

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