「これから素晴らしい時代がやってきていて、そういう時代を生きる君たちが心からうらやましい」
 梅田望夫さんの講演中のこの言葉を読んだ時、電車の中だったのだけど泣きそうになった。
 私も常々そう思っていたので、中学2年生に向かって直接そう語りかけた人物がいたことが、とてもうれしかった。
 インターネットとwwwができた時代に生きられたことは、本当にラッキーだ。だけど、子どものころからインターネットを使い、「もうひとつの地球」にも棲みながらもっと先の未来が見られたらいいだろうなぁと、本当に思う。

 この本は想像していた以上に、「生き方」に関する本だった。「こういうテクノロジーのあるこういう時代、このような現状の中で、どんな未来を目指したいか。そのために、いま何をやり、いかに生きるべきか。僕(たち)はこういう風に覚悟を決めました」。そういうお二人の決意表明が、一冊を通じて繰りかえされている。
 
 「未来は予想するものではなくて、創造するもの」。私などは大きなことはできそうにもないけれど、いつも「未来」の前に「自分の」とつけてみて、そのように考えている。自分の人生に責任を持てるのは自分しかいないこと、寿命が限られていることを思うと、「受身の生き方をしている場合じゃない!」と気合いが入る。

 思うに、世の中には人生をお客さん的に過ごしている人と、そうでない人がいる。お客さん的感覚+批評家感覚で世の中を見ている人は、社会のシステムやら他人のことを評価し、ケチはつけるが、自らシステムを変えようとか、状況をよくしようとかいう発言や行動はあまりとらない。こういう人たちにとって「未来は予想するもので、創造するものではない」。しかも誰かの予想が外れると、鬼の首をとったように文句を言う。う〜ん、苦手なタイプ・・・。
 
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 『フューチャリスト宣言』はそんな本なので、書物に目新しい情報のみを求める人は肩すかしをくらうかもしれない。
 
 色んな本の感想に「もう知っていることばかりで、新しいことはなかった」というのをたまに見る。そういうのも、何かお客さん的で、クリエイティブじゃないなぁと思う。何だかテストの後で「答えがわかってる問題ばかりだった」というのと変わらない気がする。同じ知っていることでも、それをどう表現するかは著者によって異なるから、表現方法に対する感想が出たってよい。あるいはその知っていることに対し、自分はどんな考えを持って、どのように実生活にアプライしているかとか、そこを私は聞いてみたい。
 
 個人的には、情報は必ずしも新しいことに価値があるわけではなく、情報を知っていること・持っていることが偉いとはそれほど思わない。確かに取材に行って、コンピュータがデータを吐き出すように、よどみなく情報を解説して下さるブリリアントな方々にお会いすると、「さすがもともとの脳の性能が違うわ・・」と感服する。でも、そういう天賦の才能を持った方は限られているし、茂木さんも書かれているが、情報の多くはグーグルすれば出てくるんだから、どこで探せば何が出てくるか見当をつけられれば、とりあえず十分だと思う。それよりも、情報に対しどんな姿勢で望むか、どんな情報を自分の中に配置して、いかに自分の生き方に反映させるかの方が大事と思う。
 
 人というのは忘れっぽいもので、その時にうわっと感動して何かを決意しても、数日もすれば感動も決意も萎えていく。「未来にどのような思いを抱くかで今日の生き方が変わる」(茂木さん)ことを、一日も忘れたくないと思った。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)