コウチヤマ ユリさんがHiroshima maiden(原爆乙女)のことを話してくれた。1954年(だったと思う)、被爆した広島の女性25人がNYにやってきた。目的は形成外科手術。米国でも最高の形成外科医たちが籍をおく病院が、治療・渡航費用の一切を払って、彼女たちの顔や体を再建したのだそうだ。一年以上に渡る滞在中に、口内から唇を作り出すなど、大きな手術を何度も受けたという(25回手術した人もいた)。
彼女たちに「アメリカで何がしたい?」と聞いたら、「ダンスに行きたい」と言ったそうだ。日本では世間体のために、ほとんど外出したことがなかったのだという。米軍にいたユリさんの夫ビルさんが、自分の隊の人たちを誘って、彼女たちを生まれて初めてのダンスにエスコートした。
この25人のうち、ユリさんの知っている限り2人がアメリカに住むようになったという。
渡米後間もなく、ひとりの女性のもとに、毎日のようにある白人男性が通うようになった。女性は当初ほとんど英語もできず怖がっていたのだが、だんだん打ち解けていった。一年以上して帰国する日が近づいた時、この男性がプロポーズした。とまどう彼女に他のヒロシマ・メイデンたちは「私たちと結婚してくれる人は日本ではまずいない。白人の人が結婚しようって言ってるなんて、本当にあなたのことが好きなのよ(当時はまだ人種差別が強かったのだ)。結婚すべきよ」と口を揃えたという。この女性は逡巡して、「結婚する前に親に会いたい」と広島に帰った。アメリカに戻る気はなかったらしい。ところがこの男性は日本まで渡り、彼女を探し出して再度プロポーズ。二人は結婚したのだという。
もう一人の女性は、有名な編集者の養女となった。英語が一番よくできたため、講演のようなこともしていたようだ。そのうち「子どもが欲しい」と心に決めた。他の被爆者は放射線の子どもへの影響を恐れて、子どもをもつことをあきらめる人が多かったのだが、彼女の意志は固かった。知り合いなどを通じて父親となってくれる人を探すうちに、ひとりの男性が「妊娠するまで手伝いましょう」とボランティアした。数ヶ月後、彼女は望みどおり妊娠し、出産。(ちなみにその男性がどうなったかは、誰も知らないという。)
ヒロシマ・メイデンに対し、当時アメリカにいた日本人は複雑な思いだったのか、積極的に関わりを持とうとしなかったという。一方彼女たちを迎え入れた白人家庭の人たちは、その明るさやユーモアに非常に感心したようだ。被爆後、異国で開放的な空気にふれ、形成外科手術というポジティブな人生のステップをふんだ彼女たちは、きっとすごくはじけていたに違いない。「日本人に対して悪いイメージを持っていたけど、彼女たちと出会って考えを改めたという人もかなりいたのよ。誰よりも素晴らしい親善大使だった」と、ユリさんはこの話を締めくくった。