{いろいろ]

 記事を書くために世界の統計を見ていると、何度も出てくるのが日本の自殺率の高さだ。年間3万人以上、一日約90人が自殺してる勘定だそう。
 大人はともかく、いじめによる十代の自殺の報道を聞くたびに、やるせなくなる。一生のうちで中学、高校に行くのなんてほんの6年で、あと数年したら自由になれたのにぃぃ! 
 映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』の中で、『サウスパーク』の作者が「高校時代はサイテーだったよ〜。俺らは成績ではルーザーだったけど、卒業してから人と違うヘンなとこが当たって好きなアニメで生きていけるようになった。今が最低でも、それがずっと続くわけじゃないのになぁ」みたいなことを、確か言ってた。これ、本当なんだけどなぁ〜。
 
 いじめの地獄のような日々を、ガマンすることはないと思う。学校なんて、行かなきゃいい。精神が徹底的に破壊されることを考えたら、学校行かないなんて大したことない。ホームスクーリングしたっていいではないか。誰か「学校行かなくていいよ。勉強はどうにかなるって」って言ってあげる大人が、まわりにいなかったんだろうか。昔は面倒見のいい近所のお兄さんとか、変わり者の伯母さんやいとこなんかがいたんだけど、今はいないんだろうなぁ・・。
 「大人になったら、イヤな奴とはプライベートでつきあわなくていいんだよ」「仕事だって好きに選んでいいんだよ」「自分のお金で好きなもの買えるんだよ」「お酒飲んだり恋愛したり旅行したり、楽しいことができるんだよ」「今のいじめは、あくまでも今、学校にいるから起きてることで、ずっと続くことじゃないんだよ」って、教えてあげる人が、いなかったんだろうか・・。
 
 こう申しあげては申し訳ないのだけど、心底がっかりするのは、教諭や校長の自殺だ。職場でパワハラされたり、間違ったことやっちゃったら、説明するなり謝るなりして辞めればいいのに・・。子供を率いる立場の人が「死」をソリューションにしたら、子供も「そっか、死ねばいいんだ」「そっか、死ぬしかないんだ」と思っちゃうのはしょうがない。
 よく日本の官僚などについて指摘されることだけど、自分の立場にresponsibility(責任)を感じる人はいても、自分の行動に対するaccountability(説明する責任)は、全く無視されてる・・。死んだからって、お詫びすることにも責任とることにもなってないんだけどなぁ。たとえ規則にもとることをしたんだとしても、そうしなければならない理由があったなら、それを聞きたいなぁ。だって、そこにきっと本当の問題があるわけでしょう? 
 よく逃げるっていうけど、今の環境から出ることは本当に逃げることなのかなぁ。学校でも家庭でも職場でも国でも、違う場所に行くことで自分が時間を過ごす環境は変えられる。それが逃げなのか、自分のための選択なのかは、その人自身だけが知っていることだ。まわりには、好きに言わせておけばいい。生きることや自分自身をあきらめる前に、そういう選択肢だってあるのになぁ。
 
 それほど、今の学校の環境が閉鎖的なんだろうか。そこまで、人を追いつめるシステムなんだろうか。私は子どもがいないので、実際にどんな風なのかは友人たちから聞きかじるだけで、よくわからないけど・・。ただ、学校の先生ってすごく大事な仕事だけど、すごく大変そうだなぁと感じる。正直なところ、何でもかんでも学校のせいにするcrazy parentsの話を見聞きすると、やってらんないだろうな〜と同情心がわく。
 どっかの国に「幸福な人たちは邪悪ではない」っていうことわざがあったけど、ほんとそう思う。人の悪口を言う人、意地悪をする人は、だいたい自分に不満をもっていて、不幸に突き動かされている。いじめる側の子供たちも、何かしらストレスやフラストレーションがたまっているんだろう。
 サイコセラピーでは、家庭の子供に問題が出た場合、そのこと(子)は家庭全体の問題の「症状」と考えることが多い。いじめや自殺のニュースを聞くたびに、家庭、学校、社会の問題が子供たちに浮き出ているんだなぁ、と感じる。
 昔々は「子どもはのびのび育てよう」ってよく言ったものだけど、もしかしたら現在の「のびのび」の中には「いざとなったら学校は行かなくてもいいって。やめちゃえ」というような意味も、含めてもいいのかもしれない。そのためにはやめた後にどうするかを考えなくちゃいけないんだけど。実際に「やめていいよ」となったら、「やめられるけど、やめたくない(やめない)」と決意する人も多いんじゃないかなぁ。
 新しい学校のあり方、教育のオルタナティブ、いじめという問題からの脱却を考え実践する試みがあったら、取材してみたい。